三輪 華子 Hanako Miwa

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「愛の蓮花」 より

清水敏男(美術評論家)

…人類は数千年にもわたり蓮花のことを時空を超越した存在と見なし、蓮花の上を高貴で神聖な場所と見なしてきたのである。エジプトからインド、中国、朝鮮、日本へと蓮花は長い旅をしてきたが、人々が常に同じ感情を蓮花に抱いてきたことは興味深い。

いずれにせよ、蓮花は旅路の果てに日本の一隅、山口県萩の三輪華子のアトリエにおいても、同じように高貴で宇宙論的な花として咲いたのである。

さて三輪華子の蓮花は陶製である。日本には絵画彫刻の他に、限りある生命の植物に永遠の美をあたえる芸術(生け花)もあるが三輪華子は陶による造形を選んだ。それは陶が彼女にとってもっとも身近な素材であったからである。

萩は萩焼という陶器で有名な街である。萩焼とは柔らかい土に赤い土の色がかすかに透ける釉薬が美しい焼き物で、17世紀はじめに始まった。三輪家はこの萩焼の創成期からの家柄である。三輪家は寛文年間(1661-1672)に初代三輪休雪が藩から土地を賜り窯を開いたという。実に350年にわたる歴史を有している。三輪華子は祖父も父も叔父も陶芸家という環境のなかで自然に土に親しんで育った。しかし三輪華子が陶を使って作品を制作し始めたのは5年ほど前のことにすぎない。美術大学で彫刻を学んだ後イギリスに留学しインタラクティヴアートを中心にさまざまな技法で作品を制作してきた後に、陶にたどり着いたのである。

三輪華子は土の扱いにおいて始めから驚くべき才能を発揮した。2001年に発表された最初の作品『妙』を見たとき、イギリス留学時代あえて形のないものによる芸術表現を試みていたことを知っていた私は、造形力の確かさに少なからぬ驚きを覚えたことを記憶している。しかし三輪華子は単なる陶芸作家ではない。個々の作品にはすでに腕の確かさが込められていながら、三輪華子はさらにその先へと進んでいく。それは、形のないものを表現しようとする意思であり、前述のようにイギリス時代行っていた視覚や触覚などの五感を超越した創造行為の延長にあるものといえるだろう。

今回の作品に即してそのことを考えてみよう。

今回の作品は、『愛蓮』という題名であり、その名の通り蓮花と葉とで構成されている。蓮花は開花したものと蕾とからなり、それらが葉とともに虚空に浮かんでいる。蓮花はもちろん通常は水の上に咲くのだが、作家の言葉に耳を傾けると、ここでは宇宙と言う虚空に浮かんでいると言うのである。葉はプラチナ彩によってメタリックな輝きと強靭さを見せ、あたかも金属の盆のようである。

三輪華子のステートメントによればこの作品には、はじめに記したように、エジプト以来人類が蓮花に込めてきた意味が全て込められている。蓮花は高貴なもの、ここでは 「愛」 の座す場所であり、それが永遠に続く時間のなかにあることを蓮花が象徴するのである。

それでは三輪華子は形のない永遠をいかにして表現しているか。それは鏡である。

今回の作品では背後にステンレススチール製の鏡が屏風のように置かれている。表面には軽くヘアラインがかけられ完全な反射をしないようにしつらえられている。そこに映し出されるものは半透明でソフトフォーカスの映像である。

鏡は人を騙す装置である。鏡はこの世を映し出すが、実際は虚像が映し出されているのであり、そこにはなにもないファンタスマゴリアである。しかしそれはこの世が真であるという仮説にもとづく。この世が虚であり、真の姿は現象を超越したところにあるとすれば鏡こそが真の姿を映すと考えられないだろうか。

三輪華子は虚実反対を映すという鏡の特性をつかって実在する陶の蓮花の真の姿つまり 「永遠」 を映し出して見せるのである。言うまでもなく 「永遠」 そのものは陶には存在しない。陶はせいぜいもって数万年である。しかし鏡の中の蓮花の実像は 「永遠」 の宇宙に漂う。

こうして巧みに三輪華子は蓮花の永遠性を目に見えるものとした。私たちは鏡に映った 「永遠」 を束の間見る。ぼんやりしか見ることが出来ないが、命に限りある衆生としていたしかたないことである。せいぜい目を凝らしてかすんだ鏡の彼方に、清浄な蓮花の真の姿を眺めることとしよう。しばし座して瞑想し蓮花の長い旅に思いを馳せるのも一興である。

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愛蓮

撮影 中西 隆良

愛蓮 葉: 陶,プラチナ彩 H9.5×W85cm
愛蓮 蕾: 陶 H33.7×W85cm

三輪 華子 Hanako Miwa