三輪 華子 Hanako Miwa

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「浄」 を目撃した記

清水敏男(美術評論家)

もののあわれを思う心を鈴木大拙は日本人の霊性の中枢にいたらぬものとしたが、日本人がはかなき無常世界に共感を覚えることは、打ち消しがたい感情である。

万物はうつろっていくのであり、現代の物理学はそれが真理であると説いている。ひとときも静止している物質はなく、つねに運動し変化しているのだ。

芸術家は宇宙の真相を本能的に見る。三輪華子の新作『浄』はうつろって行く宇宙に関する観察がその根底にある。はかなく消えて行く雪の美しさに、永遠の営みがあることをたくみに感じ取り、そのことを視覚化する。

三輪華子は雪を二つの相から見る。ひとつは氷晶であり、もうひとつは地面に降り積もった雪である。前者では雪はその形でとらえられ、後者では現象としてとらえられている。こうして雪は物質的と非物質的との両面から我々の精神に介入してくる。

しかし三輪華子の『浄』はそのような事実についてのステートメントで終わらない。そこにもののあわれでは説明しがたい事態が介入し、抑制不可能な領域に進展していくのだ。それは宇宙に身を置く自身の肉体の存在であり、そのことから生じる苦悩と悦楽である。

雪の上に横たわった肉と骨は紅色の火になめられつづけ、生命を生命であらしめている情熱をいつまでも失いきれずにいる。白い肌の下には血潮が波打っている。肉と骨は雪とともに消えて行くことをしないで、そこにあって脈を打ち続ける。それは自然と一体化する、つまり消えていくことができずに苦しんでいるのだが、同時にまた雪の上で肉体の悦しみを味わっている。

確かに人間は広大な宇宙の一部であり変化していく諸相に呑み込まれているように見えるが、己の一回かぎりの生命においては、肉体を否定しきることは不可能なのだ。

自然と同化しきれずに苦悩と悦楽の淵に転がっている肉と骨は、現代日本人の孤独そのものをあらわしている。いやそれは現代特有のものではなく、親鸞以来の日本的な孤独であるかもしれない。親鸞は因果からの解脱を求めず、現世の存在をそのままにして救われる道を示したが、ここに転がっている肉と骨は現世を映している。因果律に呑み込まれる安堵感はそこにはなく、救済までの孤独を耐えねばならない。

しかし美しい萩焼きの白い釉薬の肌を嘗める紅色の炎は妖艶であり、焼き物の地肌の感触をDNAレベルで知っている日本人には堪え難い肉体的な誘惑である。そのような誘惑を前にして我々は孤独のもつ重圧をしばし忘れてしまうことだろう。そしてまたふたたび、苦悩と悦楽の淵に沈んで行くのである。

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撮影 中西隆良

三輪 華子 Hanako Miwa